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第2章「衛教の教学理論」

「衛教の教学理論」

【手天道衛教教義】(きょうぎ)

私達は何処から来たのか?

私達は何者か?

私達は何処へ行くのか?

という「人類究極の命題」に対して、宇宙、地球、そして生命の歴史を科学の力によって、より正確に把握し、その土台の上に立脚してヒトから人間への変化と機能のありかたとその未来を考える、科学の進歩とともに進化してゆく宗教。

 

生命が誕生してから約38億年という気の遠くなる程の永い時間を経て現代に至っている事は周知のことです。一般に人類の祖先が誕生したのが、今からおよそ500万年前といわれています。そして西暦に至っては、まだわずかに2000年が過ぎた程度です。われわれ人類はもちろん最初から今日の姿で存在した訳ではありません。地球環境の変化に応じて適者生存を繰り返した結果、現在に至ったのです。という事は、私達人類の存在と繁栄も未来永劫のものではなく限りあるものであるという風には考えられないでしょうか。

悠久の生命の歴史に対して、私達人類の進化のスピードは突出して超高速度で展開しています。これだけ短期間のうちに知的進化とともに発展しゆく生命体は過去にも類例がないのです。その中で人類は自ら引き起こした地球環境の変化に適応でき得るのでしょうか。

未来を予測してみますに、将来地球上生物の頂点に君臨するものは私達人類の中から進化しゆく生命種なのでしょうか。それとも人類は絶滅種となり、他の生物から進化した生命種が人類に取って代わるのでしょうか。そこで冒頭に掲げた疑問を科学的に解明してゆくことによって、この手天道衛教という新しい宗教観を心の糧にしていただきたいのです。

 

【衛教発願】(ほつがん)

国家・人種・民族・文化の地域や単位を越えて、従来の神仏の概念を超越した全世界共通の絶対真理を追求し、年齢・性別そして時代を越えて全ての人々の心にやすらぎと平和をもたらす。

 

21世紀に至る現代に於いてなお国家・人種・民族・文化(習慣)の差異による偏見や差別、ひいては民族紛争から国家単位での戦争までが実際に現実に引き起こされています。これはある面から分析すると生物の持つ「他者よりも優位性を獲得しようとする本能」なのかも知れません。しかし、突然に人類に敵対し得る新しい生命種が出現でもしたらどうでしょうか。全人類は呉越同舟という国際情勢であっても、一致団結して敵種に立ち向かってゆくことでしょう。

この様に国家・人種・民族・文化(習慣)などの垣根とは環境差の受け取り方による問題であって、平和を愛し道徳を遵守する者にとってはさほど大きな問題ではないのです。それよりはむしろヒトとして生まれて人間として育てられてゆく過程が大切なのかも知れません。日本について語れば神道は「万神蕃息千王相継ぐありさま」を体系的に神話として説明したものであって大半が皇統の正統性を主張する内容で占められています。『古事記』などの文物は、言わば日本の草創期の世界観を説明している書物であって、それは私達の自分神話にとっても非常に参考に値します。ただ残念な点は、死体から蛆が湧く恐怖から、現在に至るまで「死」を忌み嫌うことです。近親者の「死」は悲しい出来事です。この神様に支えて欲しい悲しい時間、私達は神社には近づくことができません。また、八百万の神様が存在しながら、自分だけの神様を自ら創造することは容易ではありません。

他方、外来の仏教は太古よりの仏陀の教えが各派を通じて現代に至り、われわれを教化してくれる有り難い教学ですが、中興の仏教を含めて旧来の世界観を引きずり、時代にそぐわない解釈があります。また一方の神道が死を忌み嫌うため、その結果多くの仏門は教義そのものよりも葬儀などの儀式的意味合いの方が全体に占める割合として大きくなっています。来世も科学的には確証を得てはいません。

私は一般的な「神仏」信仰によるわが国の宗教体系に疑問を感じ、日本の将来の宗教について憂いを覚えています。「神仏」信仰のほとんどは、神や仏という絶対者が存在して、一般大衆はそれに帰依などしながら、近づこうと試みます。しかし手天道衛教では、「神仏」にも寄り添いながらも自ら生き続けてきた細くも永い生命の道程を讃たえ、自分自身の脳内自我を最高神として信仰します。手天道衛教は来世の存在を認めないため、何よりも今この瞬間を大切に生きて、そして自らの将来を考えるという一個人の中の絶対的自己信仰なのです。

現代に於ける、宗教が原因による戦争などは悲惨の極みです。それは人間のための宗教であって、宗教のために一般大衆が存在する訳ではないからです。私は、必ず性別や年齢を超越して全ての人々に認められ、支持される絶対的な真理が存在することを信じています。そうして手天道衛教を信仰することによって真理を追求することにより心の中にやすらぎを得た私達は、この実相社会の中で、心にゆとりを持ちながら道徳的に平和に生活してゆくことができるのです。手天道衛教は平和主義です。私は、広島市に原子爆弾が投下された8月6日と長崎市に原子爆弾が投下された8月9日との間にある、8月8日を立教記念日に定めています。立教記念日は手天道衛教にとっての盂蘭盆会であって祖先感謝の日です。この日は祖先に感謝して神棚(御神床・おんかんどこ)に果物を捧げましょう。また自らもその捧げた果物を食して、自分自身をいたわりましょう。手天道衛教は、世界平和を希求する心を提唱してゆきます。

 

【衛学の根本原理】(げんり)

人類究極の命題について、生命科学的事象を道徳倫理と照合しながら考察をおこない、また道徳倫理的事象は生命科学と照合しながら考察をおこなうという双方向性をもって、ヒトおよび人類生き残りのために必要とされる生命倫理を探求する。

手天道衛教の教学理論の事を「衛学」と呼びます。「衛学」の根本原理は「科学に道徳的考察を加え、道徳にも科学的考察を加え、人類の未来のために役立てる。」という理念です。そして創始教主の手天国家衛国の国学として興った「衛学」は、1999年4月(419掌年)に中村桂子氏が提唱される「生命誌」の影響を受けて成立しました。そしてさらに「衛学」のその学理が前衛的であり自衛的であり、かつまた衛生学的一面を持つことから必然の中の偶然によってそのまま「衛学」と呼称され、今では「衛叉」、「衛教」の学理となっています。周知の通りに現代に於ける人間型協働社会で最も深淵かつ不可視な構造的欠陥はモラルハザード(倫理崩壊)です。倫理崩壊はただ単に「自分さえ良ければ、それで良い。」というような一個人の社会に対する短絡的な背徳行為にとどまらず、一個人の倫理観と各専業単位が独自に構築するモラルとの間の乖離が増幅されている所に問題があります。例えば、一般消費者の常識は、食品業界という専業単位では非常識である場合があります。当然にしてこの場合、その食品業界の常識は一般消費者にとっては非常識です。逆説的に考えると、消費者たちの際限なき要望が、結果として食品業界に、消費者にとって非常識となりうる行動を引き起こさせているという両面性を露呈しています。この「食品業界」と「消費者」という二極の部分には「行政」と「住民」、「司法」と「当事者」、「医療機関」と「患者とその家族」と倒置することも可能ですし、また「宗教団体」と「信者とその家族」としても成立いたします。つまり、私はこの問題の根幹には、それぞれの専業単位が新しく追求する科学技術と、それに対峙する一般民衆の保守的な道徳観との間に隔絶された環境と構造があるからではなかろうかと結論付けるに至ったのです。そしてここにこそ「科学を道徳し、道徳を科学する。」という衛学の理念が正当化されると考えるのです。この様に、倫理ある心を有するからこそヒトは人間足り得るのであって、だからこそ、「衛学」はわれわれにとって必要不可欠な学理なのです。まとめると「衛学」の基本理念は、人類究極の命題について、生命科学的事象を道徳倫理と照合しながら考察をおこない、また道徳倫理的事象は生命科学と照合しながら考察をおこなうという双方向性をもって、ヒトおよび人類生き残りのために必要とされる生命倫理を探求するということです。では「衛学」が掲げるテーマである、「人類究極の命題」についてお話しいたします。

【人類究極の命題】(じんるいきゅうきょくのめいだい)

【私達は何処から来たのか】(生命とは何か?

 

人類究極の命題の第一項は「私達は何処から来たのか。」です。第一項での「私達」は「生命」に置き換えられます。つまり命題の第一項は、われわれ生命の歴史に思いをいたし「生命とは何か。」を追究する事と言い換えることができます。ここに、衛学的な生命論をご紹介いたします。およそわれわれの位置する宇宙内において、人間もその他の存在も、全ては「物質」、すなわち粒子と空間との集合と組み合わせによって成り立っています。それらの無数に存在している「物質」の中で、基本的に自分と同じ分子配列を復元・創造しようとする性質のものを「自己複製子」と呼ぶことにします。そうすると人知のおよぶ限りにおいて、それに該当する物質は、DNAとRNAと称される2種類の「核酸」ということになります。このことを突き詰めて考えると命を構成する5種類の閉鎖結晶がその根本的要素です。それはアデニン、チミン、グアニン、シトシン、ウラシル。ここでは頭文字をとってATGCUとします。Gは必ずCと結合します。Gはプリン塩基でCはピリミジン塩基です。その閉鎖的な結合を行う理由は水素結合を行える場所がそれぞれ共に3か所ずつあるからです。Aはプリン塩基で、TとUはピリミジン塩基。共に結合箇所は2か所。AとUが結合すると、RNAの相補的塩基対になります。ただ、AとUとの結合は紫外線を受けると壊れやすいのです。究極、このRNAをなす、A-UとG-Cとの相補的塩基対が3つ続くとそれが、mRNAの遺伝暗号(4×4×4=64種類のコドン)になり、それが20種類のアミノ酸を捕まえて、立体的にそれらを織りなしてゆくことによってタンパク質(生命体表現系)をなしていくのです。それでは「生命とは何か?」について時間の流れに沿って考察してみましょう。まず太古の地球で、RNA同士による自己複製が開始されました。この時期のことを仮にここでは「RNAワールドⅠ期」と称することにします。やがてRNAは、①遺伝情報の宿主としての「ゲノム」(遺伝情報系)と、②酵素としての「リボザイム」と、③遺伝情報を写し取ってリボソーム祖型へと運ぶ「メッセンジャーRNA祖型」と、④個々の遺伝情報に対応したアミノ酸をリボソーム祖型へと運ぶ「トランスファーRNA祖型」と、⑤メッセンジャーRNA祖型が伝達した情報を基に、トランスファーRNA祖型が運んできたアミノ酸を連結してタンパク質を合成する「リボソーム祖型」との、それぞれ5つの役割を分担することによって「原始生命システム」を創造しました。この時期のことを仮に「RNAワールドⅡ期」と称することにします。そうして誕生した生命システムは、後代、ゲノムをRNAからDNAへと変化させることによって、より安定し、「DNA→RNA→タンパク質」という不変のサイクルである「セントラルドグマ」という生命現象を完成させていったのです。次にこの原始生命体は、自らが製造したさまざまなタンパク質を主としながら脂質などを用いて生命区画を出現させるべく「細胞表層系」を作製するための遺伝情報をも加えてゆき、「細胞=生物」へと変化してゆきました。単一のものは「単細胞生物」で、われわれ人間は有性生殖による「多細胞共生体」です。畢竟、生命の根本原理はセントラルドグマであって、ゲノムの領域の根本原理は「まず、核酸ありき。」です。つまり生命とは、自己複製子の安定した増殖のために創造されたシステムの1つであると結論付けられるのです。われわれの肉体はゲノムにとっては継代のための乗り物に過ぎません。ですから、ご遺骨にはその存在以上の意義を見いだすことはできません。

最後に生命の特徴をまとめておきます。それは、

【生命のストラテジー】※引用文献

①生命は多様だが共通、共通だが多様である。

②生命は安定しているが変化し、変化するが安定している。

③生命は巧妙、精密だが遊びがある。

④偶然が必然となり、必然の中に偶然がある。

⑤生命は合理的だが無駄がある。

⑥生命の精巧な設計図は積み上げ方式で作られる。

⑦生命には、正常なものと異常なものとに明確な境界は存在しない。

という内容です。

​※引用文献・中村桂子、『生命誌の世界』:NHK人間講座,1999年,162P,ISBN-14-189016-2

【私達は何者か】(人間とは何か?)

 

次に人類究極の命題の第二項は「私達は何者か。」です。第二項での「私達」はそのまま「人間」に置き換えることができます。つまり命題の第二項は、「人間とは何か。」という事です。ここでは、衛学的な人間論をご紹介いたします。人間は約37兆個もの真核細胞が連接していて、「有性生殖」によって増殖する多細胞共生体という「生態系」の範疇にあります。しかも中枢神経系統を有していて、そのうちの「脳」の作用として、「言葉と文字との発音と意味が一致」する唯一の存在なのです。そうして人間型協働社会を構築して、それに対応するべくして、「倫理ある心」を創造する事に成功した生命種なのです。倫理的な価値観には善と悪というテーゼが存在します。より具体的には、あなたの身上に降りかかる善と悪という問題が日々、無数に存在しているという現実があります。この場合、善が悪に勝利する時もあれば、善が悪に凌駕されてしまう場合もあります。「倫理ある心」に科学的考察を加えると善の勝利を希求する心を矛盾なく解く鍵として「神」は必須の存在であった事が理解できます。

また衛学的な人間論の補足として、人間に限らず、およそ「有性生殖」によって増殖する生命体の持つ特質は「多様化」であって、たとえ、一卵性双生児同士であっても、仮にオリジナル人間とクローン人間であったとしても、DNAの全ての塩基配列は完全には同一になりません。何故ならばそこには、出生するまでの間においてさえすでに、①「細胞分裂」時におこる、DNAの塩基配列における「複製ミス」、②「ウイルス」、「プラスミド」、「トランスポゾン」などが関与するDNAの塩基配列における「置換変異」や、「挿入」や、「欠失」などに起因する変異が、加えて出生後にはさらに③「呼吸」時の「活性酸素」や「日光」中の「紫外線」などによるDNAの塩基配列における欠失、などの要因による変異が存在するからです。ゆえに人間とは、進化の過程上、現在は1つの単一の動物種として協働社会を構築してはいるけれども、よくよく各個人を観察してみると、一人として均一ではない、「不均一」な存在なのです。さらに補足として、人間に限らず「脳」によって複合的な状況判断のもとに、今この瞬間における最高意思決定をおこなうことが可能な動物種には、その意思決定について「確率」が存在しているのです。つまりその意思決定に際しては、外部環境、食欲、性欲、睡眠欲、経験、本能的直感などの要因によって、たとえ同一人物が同一の状況に直面しても、その判断は一様ではないという「不確か」な存在なのです。そして「コラム」の領域は、今まさに「ゲノム」の領域に対して、条件付きながらも優位性を獲得しつつある状態にあるのです。

全ては「ゲノム」の領域の最善たる継代のために、「コラム」の領域は、協働社会、倫理、神なる存在を創造しました。この世間での神なる存在には、原始アニミズムから端を発し、全宇宙信仰、創造主としての神、そこから人格神や守護神などが派生しています。手天道というアニミズムの世界であっても自己の人格神、創造神、そして守護神が存在しています。科学的結論として、人間のみが「神」という脳の作用を有していると言えます。つまり遺伝子は神ではありません。なぜなら神は操作される存在ではないからです。手天道衛教では、神は、神を信仰する脳内自我にあると考えます。つまりコラムの領域の根本原理は「精神至上主義」であって、衛教として言いかえると「精神が最高神。」ということです。また最高神に対する創造神とはゲノムの領域の根本原理に従い、最初の生命体からあなたにまで至る、全ての継代の過程です。たとえば、あなたの母の母(産みの祖母)がいなかったら、あなたはいないのです。またたとえば、あなたの父の父(父方の祖父)がいなかったとしても、あなたはいないのです。この様に一筋の継代のドミノは、1つでも欠けると、あなたは存在していないのです。畢竟、動物とは多細胞共生体という個体で1つの生態系であり、ゲノム情報とホメオスタシスによる唯一無二の自己創出系です。その中で人間とは、言葉と文字との発音と意味が一致する唯一の生命種であり、コラムの領域が「神」という概念を創造した最初の存在だといえます。

【私達は何処へ行くのか】(倫理とは何か?)

 

また次に人類究極の命題の第三項は「私達は何処へ行くのか」です。この場合の「私達」は「人間型協働社会とその倫理」と倒置することができます。つまり命題の第三項は「倫理とは何か。」ということです。まず衛学的に倫理についてまとめます。遥か昔、森を追われ草原に降り立ったわれわれの遠い祖先たちは、元来「群れ」を構成して生活していました。それは、個人よりも家族、家族よりも集団で暮らす方が、外敵からの攻撃に対する防御性に優れていたからです。さらに、「人間型協働社会」では分業化が進み、それぞれの専業単位に代価を支払うことによって生産代行を成立させるべく「貨幣経済」へと発展し、今日に至っています。すなわち、各個人は、社会に対して何らかの「貢献」をすることによって「報酬」を得て生活をしているのです。そこで「暮らし易い協働社会」を実現するために個人と家族、または個人と社会との間に存在するのが、人間としておこなうべき基本的なルールとも言うべき「道徳規範」としての「倫理」なのです。しかし、すでに述べたように、人間とは「不均一」な存在であって、しかも確率に満ちあふれた「不確実」な存在なのです。当然にして各個人における道徳規範の集約である人類全体の倫理というものにも、「共感できる部分」と「共感できない部分」とが存在します。そしてもちろん「倫理観」も不変の存在ではなく、時代と共に「変遷」するべき性質を有しているのです。たとえば「義務論」的に考察する立場から各個人の倫理について検証しようとしても、係争する2人の個人間に発生するそれぞれの倫理観の相違点は浮彫にできても、両者の倫理観について優劣をつけては判断できない場合があります。また「功利主義」的に「最大多数の最大幸福」を優先して論じたとしても、同様に一個人の倫理は、社会の倫理に劣るなどとは断言できません。そこでの最大の問題点は、「わたしの生命倫理」に対峙する「あなたの生命倫理」もしくは「社会の生命倫理」との間に実在する力関係を、矛盾なくどう解くかというところにあるのです。現実に、この世の中で「自分」にとって真正に「確実な事象」とは、今この瞬間において幾多の確率の上に決定される「決断」と、その結果の積み重ねとしての各個人の「歴史」との2つしか存在していません。つまり実際には、「不均一」で「確率」に満ちた存在でありながら、協働社会発展のための必要条件として「基本的人権」や「平等」という理想を追求しなければならないのです。では、人間各個人のモラルある自由な意思決定が確実なものであるとして、本来「平等」であるべき、それらの「決断」同士が衝突した場合はどうなるのでしょうか。物理学上、「不均一」で「確率」に満ちた存在が「均一」で「平等」な存在になることはありません。でも、たとえそれが現実であるとしても、われわれは「基本的人権の尊重」や「個人の平等」という崇高な理念を放棄する訳にはいかないのです。なぜならば「モラルハザード」(倫理崩壊)は、協働社会を倒壊させる原因となるからなのです。「社会が崩壊して困窮するのは誰か。」それは他ならぬ「あなた自身」なのです。この倫理学上の問題点を矛盾なく解く方法として、現段階の「衛学」では「互恵的個人主義」という言葉を用いて説明しています。一般的に「互恵的利他主義」と称されるこの考え方は、当座の場面他者を救済することによって、将来自分自身も救済され得るという期待に利を求めるというもので、モラルハザードの抑制に効果が期待できます。第1章で述べた様に、もしもわれわれが単独で行動する動物種と同様に本能的な欲求や生理的衝動である肉体の声のみによって弱肉強食の世界を展開したとしたならばどうなるのでしょうか。そこには言葉と文字との発音と意味を一致させることができるだけの「無力な1人の人間」が存在するのみなのです。不均一な者を平等とみなす崇高な理念に一歩でも近づけるための「理想的水準としての公平尊重」とは、まず当然にして「人間中心主義」です。そして「自己を自律的に尊重する。」ということになります。社会的に自己を尊重するための最善の策は、ある程度、他者を尊重するということになります。そうして自律的に「他人に故意に危害を加えない。」という原則のもとに、「正義と仁恵」によってお互いを助け合うことによって自らの「利」を得るということになるのです。さらに「ESS理論」(進化的に安定な戦略理論)を「互恵的個人主義」に応用して考察してみると、モラルハザードにも一定のブレーキがかかるものと思われます。それは倫理崩壊が進行してゆくと、進化的に安定な戦略的に、自らと家族の安全のために、必ずそれに歯止めをかけようとする人々が出現してくるからなのです。「人間中心主義」と「ESS理論」を応用した「新しい個人主義」。そこには「物質」から成り立っているのに「命」がある謎。「動物」であるのに「倫理ある心」を有する不思議。「不均一」であるのに「平等」であることを追求することの矛盾を克服するための叡智が隠されているのです。手天道衛教では、倫理ある心を持つからこそ、動物種としてのヒトは人間足り得ると規定します。そこで8か条から成る、「新しい個人主義」を提唱します。手天道衛教の「新しい個人主義」とは、

【手天道衛教・新しい個人主義】(しゅぎ)

①人間中心主義を基本的前提として行為し、生きる。

②人間一個人一国家の比喩に生きる。

③進化的に安定な戦略という学理を基本的前提として行為し、生きる。

④自己責任による自由を管理しながら行為し、生きる。

⑤理想的水準としての公平尊重を心掛けて行為し、生きる。

⑥互恵的個人主義を心掛けて行為し、生きる。

⑦他者危害の原則を遵守して行為し、生きる。

​⑧自らの命を大切にして、生きる。

という、より良く生きる為の原則です。手天道は自我を世界の中心に据えて考える万物崇拝です。あなたの世界の中心はあなたであり、あなたの人生の主役は当然、あなた自身です。しかし倫理的に全世界の中で、あなたはその中心に存在する支配者ではありません。協働社会では自己中心的な振る舞いは許されません。ですから手天道には衛学という倫理が不可欠なのです。更に、科学的な根拠に準じるわれわれは来世を信じません。そこで「衛学の信条」を高唱しているのです。それが「まえがき」で掲げた、

【手天道衛教の信条】(しんじょう)

①今、この瞬間を大切に生きる。

②常に、何故なんだろう、どうしてなのだろう、と思う心を持ち続ける。

③決して、最後まで諦めない。

④決して、他人に危害を加えない。

⑤自分自身とその未来を信じること。

 

の5点なのです。

畢竟、倫理とは人類生き残りのために必要な知恵であると言えます。その倫理ある協働社会の中でより良く生きるための叡智として宗教は必要であり、運命や人知の及ばぬ謎や摩訶不可思議な力やその人格を矛盾なく領得するために、多くの人には「神」を信仰するという行為が必要となるのです。運命、人知の及ばぬ謎、摩訶不思議な力、これらに対応するために自らの信仰心を最高人格神として、また自分にまで至る生命38億年の道程を創造神として信仰しながら、更に過去の歴史の中から最善・最強の方格守護神を複合したものが衛教なのです。つまり衛教に限定して結論付けるとするならば、「神」という倫理とは、信じる者だけが実感できる脳の作用であると言えます。

 

【手哲から衛学へ】(しゅてつからえいがくへ)

 

手天道草創期の当初より、私は手天道の実践には道徳観の付加が必要であることは自覚していました。原始、それは「手哲」(しゅてつ)と呼称され、私の中で漠然と集約されていきました。手哲とは手天道の哲学という意味です。例えばこの章の末尾に、人間と生命倫理との関係について、哲学的に或いは宗教的・道徳的な観点から、どんなに筆舌を尽くして解釈を加えたとしても思想的にも理論的にも誠に雲をつかむような状態であって、その実体を究明するのには遠くおよびません。「哲学」とは根本原理を究める学問であるという定義でありながら、思想の杜の中に迷路を築くが如く、人間の実体について、私達に何も教化してはくれません。そのことは、現代社会に於いて最も遺憾なことのひとつです。そこで科学的に人文的に生命・人間・倫理を究明することによって、人類生き残りのために必要とされる新しい生命倫理を探ろうとする「衛学」の観点とその思考が必然であることを証明することが可能なのです。今ここに個人の域を超え、みんなの為の「手天道衛教」を正しい方向に導く為に公平な道徳倫理が必要不可欠となり、それが「衛学」となって教学理論は一応の完成をみました。「衛学」の基本理念は、「人類究極の命題について、生命科学的事象を道徳倫理と照合しながら考察をおこない、また道徳倫理的事象は、生命科学と照合しながら考察をおこなうという双方向性をもって、ヒトおよび人類生き残りのために必要とされる生命倫理を探求する。」というものです。その「倫理とは何か」を考察するために科学に寄り添い、新しい発見を積極的に取り入れながら、ここまで「生命とは何か」、「人間とは何か」を考察してきました。私は、実学であるべき「衛学」の第一目標としてモラルハザード(倫理崩壊)を抑止したいと考えています。さらに私の希望としては、この「衛学」というわれわれの教学倫理の未来は、モラルハザードを抑止した後に、もっと積極的な倫理確立に活用されるべきと考えています。最終到達系として、「手天道衛教」が存在する地域の「倫理立国」に寄与するまで、われわれの教学理論は、科学的進歩と共に進化してゆくのです。

この章の最後に、今一度「衛学の信条」を述べて終わります。それは、

​【手天道衛教の信条】

①今、この瞬間を大切に生きる。

②常に、何故なんだろう、どうしてなのだろう、と思う心を持ち続ける。

③決して、最後まで諦めない。

④決して、他人に危害を加えない。

⑤自分自身とその未来を信じること。

​の5点です。

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